はじめましての方もはじめましてじゃない方もこんにちは。猫狂でミニマリストの阪口ゆうこです。
猫が好きすぎて、つい猫に哲学を見出してしまう人間──それが私です。
こちらが勝手に学び、感動し、癒され、崇めているけど、どうやら猫たちはどうでもいいらしい。あくまでマイペースである。
こんなふうに、尊敬しているのに勝てる気がしない。
猫とは、常に人間より格上の存在です。
こう感じているのは私だけじゃなく、時代も国も超えて、偉人たちまでもが猫の魅力に心を奪われているらしい。
というわけで今回は、猫と偉人たちの名言とエピソードを集めてみました。
「猫ほど素晴らしい友達はない」
──マーク・トウェイン(作家)
マーク・トウェイン(1835–1910)は、アメリカの有名な作家だ。
『トム・ソーヤーの冒険』を書いた人、と言えばピンとくるかもしれない。そういや、うちの書棚にもあったな。
彼の言葉を聞いて、「まあ、そうだよね」と思う。
だって猫は、こちらが何も頑張らなくても、勝手に友だちみたいな顔をしてくれるから。
もしくは、ガン無視してくれる。
0か100かといった究極の二択。
それもまた猫である。
彼はたくさんの猫と暮らし、あちこちで猫の話をしていたらしい。
冒険小説もいいけど、本当は、家で猫をなでながらゴロゴロする時間のほうが好きだったんじゃないかとすら思う。
私も、予定が何もない休日は、猫をいちばんの友だちみたいに扱う。
でも、向こうの気が乗らない限り、私は他人以下である。
私が寄ればあちらは離れ、私が忙しい時ほど、なぜか寄ってくる。
ウマが合わない?と思うかもしれない。
でもこれはむしろ、「距離感を一定に保ってくれている」のだ。
素晴らしいかはよくわからないけれど、この微妙な距離を縮められないから、たぶん私はずっとハマり、恋をし続けている。
「完璧な友達」って、こういう「永遠の片思い」のことを言うのかもしれない。
無理に寄り添ってこない、でも勝手に、そばにいる。

「猫には絶対的な正直さがある」
──アーネスト・ヘミングウェイ(作家)
アーネスト・ヘミングウェイ(1899–1961)は、アメリカ文学の巨人。
彼は6本指の特別な猫と暮らしていた。
猫はウソをつかない。媚びない。
なつくときはなつくし、なつかないときは見向きもしない。

私も「快か不快か」という二択で生きるその姿に、真の自由を感じてしまう。
誰もが憧れる存在、それが猫だ。
ヘミングウェイもきっと、そんな「ありのまま」を信じていたのかも。
「猫と暮らす者は、豊かな人生を手にしている」
──レオナルド・ダ・ヴィンチ(天才)
天才レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452–1519)も、猫を愛した偉人のひとりだった。
彼のスケッチ帳には、たくさんの猫の絵が残っている。
飛行機を考案するような、スペシャル頭脳を持っていても、猫の気まぐれには勝てなかったらしい。
確かに私も、猫と暮らして心が豊かになった。
というより、今の幸せがあるから、猫がいない暮らしを想像して震える日すらある。
帰ってきたら「どこに行ってたんや」とドヤされるのもなくなったら寂しすぎる。「ねえ、メシ」と、仕事中に鼻がつくくらいの至近距離でニャーニャーの邪魔を浴びるも、自然と口角が上がっている。
「遊んであげてもいいよ」とPCの上を堂々と右往左往されるのも。
;Klんはjgっっっっっっっっっっっっっっっっっっfっっっっっっっっっっっっっっfなどと、PC画面が狂ってしまっても、さっきまでのアイデアが全部吹っ飛んだとしても…すべて、この上なく幸せなのである。
人間なら腹が立つこの振る舞いが、猫だと無限に許せるのが不思議だ。
心も豊かになっている証拠だろう。
なお、上記のエピソードの一部は今現在起こったノンフィクションである。

「時間を無駄にしたくないなら、猫を見習え。彼らは常に今を生きている。」
「時間を無駄にしたくないなら、猫を見習え。彼らは常に今を生きている。」
──アルベルト・シュヴァイツァー(医師・哲学者)
アルベルト・シュヴァイツァー(1875–1965)は、医者であり哲学者であり、ノーベル平和賞を受賞した偉人。
そんな彼が猫に学んだのは、「今を生きる」ということだった。
でも、猫たちにはそんな意識は、たぶんまったくない。
「何熱くなってんの?」と、しっぽをうねらせて見ている気がする。
もう一生勝てない気がする。
いや、勝ち負けなんてものも──猫たちは縄張り以外、気にしていないんだろうな。チキショー。

私もしばしば、猫に対して哲学的な見方をしてしまう。
けれど、たぶん猫から見れば、人間がごちゃごちゃと考え悩む姿なんて、
「何それ」くらいにしか見えてないのだと思う。
本当に、勝ち目がない。
日本にも、猫へのラブコールはたくさんある。
「猫は人を癒したりしない。人が勝手に癒されるのだ」
「猫は人を癒したりしない。人が勝手に癒されるのだ」
──夏目漱石(『吾輩は猫である』より、意訳)
夏目漱石(1867–1916)は『吾輩は猫である』を書いたものの、猫に対してそこまで甘々ではなかったとも言われています。
猫は、ただ猫であるだけ。
人間が勝手に癒され、勝手にありがたがっているだけです。

これ、非常によくわかるんですよね。
「癒そうなんて、ことさら思ってないけど。癒されて感謝されるなら、まぁええか。え?おやつくれんの?やったー」
──たぶん、猫の意識なんてこの程度だと思う。
それを、人間が勝手に「癒してくれる」なんてめでたく変換しているだけ。
でも、それでいいんです。
むしろ、その方が猫には好都合。
だから私たちは今日もありがたく、「癒していただいている」ということにして、頭を下げておけばいいのだと思います。
「飼っているつもりで、飼われているのが猫。」
──柳美里(作家)
「命」で有名な作家、柳美里先生も見抜いている。
人間がエサをやり、トイレを片付け、暖房までつけてあげている。
それを「飼っている」と言うのは、たぶん勘違いである。
私も黒猫が家にやってきた当初は「飼っている」と思っていた。スポイトでごはんを与えて膀胱を刺激しておしっこをさせて、暖かい寝床を用意して、誰もいないとずっと鳴いているから、寂しくないようにそばで寝て…。控えめに言ってとても手がかかった。
責任というのはこんなに大変なんだなと実感し、放っておいたら死んでしまいそうな小さな命を前にほんの少しだけストレスを感じていた。
しかし、そんな手がかかる暮らしも数週間程度だった。
黒猫は、翌月には我が家に慣れ倒して四肢をおっ開げて部屋のど真ん中で寝ていた。
時々「メシ」と鳴く。一丁前に無視をする。大人顔負けのうんこをする。

そんな、家を占拠する勢いの猫は「絶対的存在」に成り上がっていた。
すでに「飼っている」から「飼わせて頂いている」になっていて、人間の心までも占拠し始めていたのだ。
現在はさらにパワーアップして、私たち人間は「嫌いにならないでぇ」「1日でも長生きしてぇ」「何があってもずっとここにいてぇ」といった、弱すぎる立ち位置にいる。
あなた方のお世話をさせて頂けて光栄です。
古今東西、偉人たちが猫にこれほど惹かれた理由。
それはきっと、「猫は、人間より、ほんのちょっとだけ格上だから」。
今日もどこかで。
小さな王様たちが、世界をほんの少しだけ回している。
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