はじめましての方も、はじめましてじゃない方もこんにちは。猫狂でミニマリストの阪口ゆうこです。
先住猫の黒猫が、今日も「世界の真理に気づいてしまった顔」をしています。
壁に向かってキックしたり、謎の笑みを浮かべたり。
呼んでも来ないくせに、私が寝ようとすると隣に来る。
これは…そう、もしかして…「厨二病では?」。
そんな疑いが日々深まるので、今回は黒猫にフォーカスしてみました。
厨二病とは。世界を背負う中二フィロソフィー
選ばれし者気取りの「厨二病」。
基礎知識を書きたいと思います。
厨二病(ちゅうにびょう)とは、中学2年生くらいの年齢にありがちな、痛々しくもどこか愛しい言動や妄想のことを指す俗語です。
ざっくり言うと…。
「自分には特別な力がある」
「世界の真理に気づいてしまった」
「大人や社会には染まらない。孤高の存在である」
「誰も俺の本当の姿を理解できない」

といったテンションのことで、少し背伸びしているけれど、本人はいたって真剣です。
真剣すぎて、その真剣さにこちらが耐えきれず、ついクスッと笑ってしまう。
そんな痛々しさには、なぜか惹かれてしまう魔力があるのです。
もともとは人間限定の言葉だったはずの「厨二病」。
我が家の黒猫が「ドヤ顔で壁キック」「目を細めて謎の笑み」「呼んでも無視」といった行動を連発するようになってからは、どうしてもこの言葉が脳裏に浮かびます。
「お前、こじらせてるだろ…?」と。
今やこれは人間だけのものではなく、「イタさ」に愛を込めてツッコむための言葉として、猫にも適用される時代が来たようです。
ちなみに語源は「中学二年生病」→略して「中二病(厨二病)」。
初出はラジオ番組のコーナー名だったそうです。その文化的ルーツに敬意を表しつつ、今日も私は猫に向かってつぶやきます。
黒猫という存在の宿命(さだめ)
我が家の黒猫には、自分が黒であることに誇りを持っているような空気を感じます。
いや、実際のところはただの猫なんですけど…やたらめったら誇らしげなのです。
我が家の黒猫は、目が妙に座っていて、昭和のヤンキーを彷彿とさせる物々しい雰囲気をまとっています。
何かをやらかしそうなオーラを常に放っています。

…とはいえ、それはあくまで「雰囲気」であり、実際に何かが起きるわけではありません。
雰囲気だけで押し切る。
その努力が見えるのです。
もうその時点で可愛いのです。
黒猫と目つきの悪さ。このセットは、厨二病の象徴であり、欠かせない要素だと思っています。
壁キックは正義の跳躍
厨二病に気づき始めたきっかけは、まさにこの「壁キック」でした。
私たち家族が食卓を囲んでいたり、リビングで談笑していたり…つまり、猫から意識が逸れているタイミングで、それは突然始まります。
唐突に壁に向かって走り出し、高く跳んだかと思えば、壁に足をかけてキック。
そして世にも美しく着地します。
その一連の流れに、誰ひとりとして無関心でいられません。
「今の見た?」「かっこよ…」という、賞賛のざわめきに、本人はまんざらでもない表情を浮かべます。
「ふっ…やめろよ。騒ぐなよ…」と言いたげに、背中で語るのです。
あの瞬間は誰がどう見ても明らかにドヤっています。
そんな黒猫を目撃した瞬間、私たち人間は思うのです。
「我々にも、ああいう時代があったなぁ」。
中学生の頃、缶コーヒーを無理して飲んでみたり…。
周囲に全然寝てないアピールをしたり…。
黒猫を見ていると、懐かしい黒歴史時代の自分に出会えるような気がするのです。
後輩猫との関係性、これは抗争か通過儀礼か
リビングにて。
黒猫は、うちの白い後輩猫に、時折襲いかかります。
唐突に。
しかも背後から。
卑怯。実に卑怯です。
でも、それが厨二病の美学なのかもしれません。
「勝ちたい」「勝ちさえすればいい」「手段は問わない」──そんな潔さを感じます。

一方、白猫はというと、全力で喧嘩を買いながらも、全身から「めんどくせえ…」というオーラを発しています。
完全に巻き込み事故。
それでも黒猫の挑発には、きっちり応えるあたり、義理堅さを感じます。
抗争なのか、儀式なのか。
いや、もはやプロレスなのか。
私たち人間は、ソファでその攻防を眺めながら、こっそり「今日の勝敗」を心の中でつけていたりします。
ドヤ顔とは何か──
猫は表情を持たない生き物だと言われますが、あれは嘘です。
「ドヤ」を感じる瞬間は、確実に存在します。

壁キックのあと。
爪研ぎが音割れするレベルでキマッたあと。
キャットタワーからのジャンプ着地が美しくできたあと。
彼は、3秒間ほど静止するのです。
この3秒間に、何か見えないオーラが漂います。
まるで「この瞬間をおさめよ」と言っているかのように。
そのキメ顔に、私たちは自然と拍手を送ります。
その拍手の音が響くたび、心のどこかで思うのです。
「猫にも承認欲求って、あるんだな」と。
一匹の反逆者として生きる美学
基本的に呼んでも来ません。
でも、こちらが仕事に熱中し始めた頃を見計らって急にやって来ます。
そしてそれも、「一応」のレベルで来ます。
そこは来るのです。
でも、手で触れようとすると、体を避けながらもサッとこちらに顔を向けて「俺に触れていいと思ってんの?」といった態度です。
「誰もいない時はデレデレしてくるくせに…」私はモヤっと思う。
そうなのです。
同じ空間に後輩の白猫がいる時は「誰も俺には触れられないモード」なのです。

なので、2人きりの撫でさせてくれる時間は神聖。
我が家では「儀式」扱いです。
甘えるタイミングは、自分で決める。
撫でていいかどうかは、その日の気分次第。
完全に「自由意志のかたまり」。でも、そこに惹かれるのです。
それでも愛してしまう厨二病猫との暮らしの幸福論
人間にたとえるならば、ちょっとこじらせた少年。でも、そのこじらせ具合が、ものすごく愛おしいのです。
闇を背負っているようで、実はただのツンデレ。でも、それを素直に見せない強がり。
そんな猫が、今日も静かに家のどこかで寝ています。
存在感、ばっちり。それだけで癒されます。

我が家の黒猫は、たぶん一生厨二病。
でもそのままでいてほしい。その痛々しさも、全力で愛しています。
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