「もう大丈夫だろう」と思っても、ペットロスの傷は本人が自覚しているよりも深いこともあります。去年の年末、私は初めて骨壺を開けて愛猫の遺骨と向き合い、その事実を痛感しました。
涙だらけの日々は終わった。きっと、今なら笑顔で遺骨と向き合えるはず。そう思っていましたが、実際に骨壺を開けてみると、意外な感情が溢れだしました。
”涙での見送り”を上書きしたくて、骨壺を開けた日
愛猫ジジが亡くなって7ヶ月以上経った、去年の年末。いつものように骨壺をそばに置きながらゲームをしていた私はふと、思いました。そういえば、お骨になったジジには涙しか見せてないな…って。

愛猫の火葬時やお骨拾いの時は、どうしても涙で顔がぐっちゃぐちゃになってしまうものですよね。愛しているからこそ、それは仕方がないこと。でも、私はそんな自分でしかいられなかったことに対して罪悪感のようなものを持ち続けていました。

生前、あんなにも笑顔で過ごして、闘病中もできる限り笑顔でいようと心がけていたのに、最期の最期に大泣きしちゃうなんて、情けないよなって。
ジジは私が過呼吸になると、駆け寄って腕を噛むという独特の生存確認(?)をしてくれる優しい子だったので、余計な心配をさせてしまったんじゃないかという後悔が、ずっとありました。

ジジのことを思って泣くより、生前のかわいい姿を夫と話して笑うことが増えた今なら、遺骨とも笑顔で対面できるかもしれない。…よし!後悔している”涙の見送り”を上書きするぞ。
そうひらめき、愛猫亡き後、初めて骨壺を開けて遺骨と向き合いました。

開ける時は正直、すごく勇気がいった。何回、深呼吸して「よし!開けるぞ」と気合いを入れただろうか…。まったり過ごしていた2匹の愛猫たちは距離を取りながら、様子のおかしい私に冷めた視線を向けていました。
骨壺を開けた時に溢れだした「遺骨を食べたい気持ち」
着実にペットロスの傷が癒えていっている、今の自分。遺骨と対面しても、きっともう涙は流さないだろうな。火葬後に遺骨と向き合った時のような悲しさも生まれず、「ジジはここにいるんだ」と、遺骨が手元にあることをプラスに捉えることもできるかもしれない。

骨壺を開ける前、私はそう思っていました。でも、人間の心は正直ですね。骨壺を開けて遺骨が目に飛び込んできた途端、気づけば嗚咽を漏らしながら号泣していました。想像しなかった自分が突然出てきたような感覚になり、自分で驚きました。
それでも「遺骨と向き合うんだろ!」と自分の背中をドンと押し、小さな骨をひとつ手に取った時、ふと思いました。この遺骨を食べたら、ジジとずっと一緒にいられるのだろうか…と。

実はこの考え、ジジを亡くした直後から心にあります。昔、とある猫漫画を読んだ時、私は初めて「愛猫の遺骨を食べる」という行動をとる人がいることを知りました。
漫画の作者さんは愛猫が亡くなった後、遺骨を食べ、自分の一部にしたことで「これからも一緒に生きていられる」と思えたのです。
漫画を読んだ時、まだペットロスを経験していなかった私は正直、すごく驚き、「愛猫の遺骨を食べる」という行動に疑問も抱きました。

「健康的に大丈夫なのだろうか…」と不安になったし、「いずれ、消化されてしまうから一体化はできないのでは…?」と、気持ちの理解が難しい部分がありました。
どれだけ愛しくても、愛猫の遺骨を食べることは私はしないだろうな。そう思っていたのに、実際に愛猫を亡くしてみると、作者さんの気持ちがよく分かりました。
自分の体内に愛猫の遺骨を取り込んでも、消化されるなんて事実は分かってる。もちろん、健康面を考えればオススメなんてしないことも。

でも、そうした現実的な諸々なんてどうでもよくなるくらい、「この先も愛猫と一緒に生きていきたい」の気持ちが勝るんだ…と気づいたんです。
持病がある私は、やっぱり健康面が不安になって遺骨を食べはしませんでした。でも、もし、持病などなかったら、あの日、食べていたかもしれない。
私にとって、骨壺に入っていた遺骨は私に「ジジは今でもここにいる」と思わせてはくれず、「あの子はもう、この世界にいない」の現実を改めて突き付けてきました。
飼い主は「愛猫の遺骨」とどう向き合えばいいのか
この出来事によって、私は「飼い主って愛猫の遺骨と、どう向き合っていけばいいのだろう」と、よく考えるようになりました。骨壺は涙を流さずに見られるようになった。でも、愛猫の遺骨をダイレクトに見ると、やっぱり心が抉られる。

それなのに、骨壺というオブラートな姿だけを受け止め、愛猫の遺骨そのものと向き合えない状態は、なんだか愛猫に対して失礼な気もする…。小さなことが気になるタイプだからか、私はそう悩んでしまいます。

ペットロスの傷が徐々に和らいでいくように、愛猫の遺骨を見た時の気持ちも徐々に変わっていくものなのかな。もし、似たような気持ちを経験したことがある方がいたら、そのあたりの心境の変化を詳しく教えてほしいです。

自分ではペットロスの傷は結構癒えたつもりだったけれど、遺骨を前にしたら、まだ全然だった。一体、ペットロスの痛みはどうなったら「癒えた」と癒えるのだろう…。そんなことも考えながら、今日も骨壺を抱きしめています。






ペットロス、骨壺を開けて知ったの文字に釘付けになりました。私の大事な猫もジジと言います。亡くなってもうすぐ3年になります。私は、皆様より情け無い飼い主でした。病気にさせ、苦しむ姿をみながら看病する間も泣く姿しか見せられず、亡くなってからも泣いてばかりで、毎日骨壺を抱き過ごし、夜はベットに入れて寝る日々を今だ続けています。1年くらいは、家の中に居ない事実がたえられず、疲れるまで近所を徘徊したりしました。もう守る者はない、いつ死んでもいいや〜と思うこともある始末。それでも、年くすり?ですかね。泣く時間は減りました。でも、命日が近づいてくるとダメですね、涙が止まらなくなり、たくさんのごめんが溢れてきて、ぐちゃぐちゃになります。この先何年続くのか?今だわかりません。次の子を迎えることはせず、あの子の居る空に逝くことが使命だと思っています。
私も食べたら消化してしまうので諦めました(笑)異常な考えかなと思ってました、良かった仲間がいて(笑)でもたまにあけて撫でてます。
お骨を見ても見なくても、食べても食べなくても、忘れても忘れなくても、一緒に過ごした時間が今の自分を作り上げてて、今もまだ共に生きていると思えるようになりました。
小さな欠片まで愛おしい、そう想える存在に出会えて幸せでした。
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