猫への接し方は“自分がされたいこと”を表している!?――愛猫との暮らしで気づいた心理学

猫への接し方は“自分がされたいこと”を表している!?――愛猫との暮らしで気づいた心理学

動物への接し方には、その人の人間性が現れる。例えば、私は愛猫にドン引かれても、抑えきれない愛情をストレートに表現するタイプ。一方、夫は猫のほうから近寄ってきた時だけ撫でるというお手本のような接し方で、猫心を掴んでいます。

なぜ、こんなにも愛猫への接し方が違うのだろう。そう考えた時、頭に浮かんだのは昔、なにかの本で見た「動物にしていることは自分がされたいこと」という言葉。

その言葉を意識して愛猫への接し方を自己分析してみると、「たしかにそうかも…」と納得せざるを得ませんでした。

人は”自分がされたい愛情表現を愛猫にしてる!?

「心地いい」と感じる愛情表現は、人によって異なります。私は、愛情過多くらいが安心できるタイプ。愛猫に対しても「ずっと大好き」や「いい子だね」、「かわいいね」という言葉を頻繁にかけています。

でも、そういう言葉って、よく考えてみれば、私自身が言われると嬉しかったり、安心したりするものでした。

人は”自分がされたい愛情表現を愛猫にしてる!?

人間って、もしかして自分がかけられたら嬉しい言葉を愛猫に伝えているんだろうか…。

そう疑問に思った私は実験を開始。「大好き」とは言わず、なぜかいつも「今日も猫を頑張ってたね」と、不思議な褒め方で労わる夫に「今日も(夫の名前)を頑張ってたね」と伝えてみました。

すると、夫は「なんだそれ!」と笑いながらも、どこか嬉しそうな表情に。「気遣ってくれてありがとう」と、私の頭を撫でました。

その反応を見て私は、「ああ、たしかに夫は普段から些細な気遣いでも大げさなくらい喜んでくれるよなあ」と思い出し、ある発見を得ました。

多分、夫の中では「気遣い」が最上級の愛情表現。だから、普段から私や愛猫のことをよく気遣ってくれて、自分が重要視していることをされると嬉しくなるんだろうなと気づかされました。

もしかしたら、愛猫へのなにげない声かけには自分が思っている以上に心の本音が溢れているのかもしれません。

愛猫に求める距離感は人間相手と同じかも…?

かける言葉だけでなく、愛猫との距離感にも人の本音は現れるような気がします。私は、愛猫にはベッタリそばにいてほしいタイプでした。その傾向は恋愛中にも現れ、相手がそばに長くいてくれると「愛されている」と思えました。

愛猫に求める距離感は人間相手と同じかも…?

一方、夫は男性あるあるだけど、ひとりの時間が絶対に必要なタイプ。愛猫にも「ベッタリそばにいてほしい」と求めることはありません。

夫は、私の自由も尊重してくれます。私が推し活作業に夢中な時は、あえて話しかけないという優しい気遣いをしてくれることも。そんな夫と暮らす中で私は、ベッタリとそばに寄り添わなくても愛は壊れないことを学びました。

生まれ育った家庭では家族みんなが父親の行動に合わせて動かなければ叱られたので、私はいつしか「いつでもそばにいることが愛」と錯覚していたのだとも気づきました。

そういう気づきを得てからは、愛猫に「ベッタリそばにいてほしい」と求める日が減ったような気がします。自分の中の”寂しい気持ち”が暴れ出した時には愛猫をギュっと抱きしめ、愛をチャージすることはありますが、「常にベッタリでなくても私たちは繋がっている」と感じられている。

そういう気づきを得てからは、愛猫に「ベッタリそばにいてほしい」と求める日が減ったような気がします。自分の中の”寂しい気持ち”が暴れ出した時には愛猫をギュっと抱きしめ、愛をチャージすることはありますが、「常にベッタリでなくても私たちは繋がっている」と感じられている。

以前は呼んでも愛猫が来なかったり、別室で自由気ままで過ごしていたりすると、とても寂しかった。なんだか、自分が世界にひとりぼっちな気がして。

でも、今は「寂しい」より、「あの子もあの子なりに楽しんでくれているんだな」と、その自由さを微笑ましく受け止められています。

この考え方の変化は愛猫や夫以外の人間相手にも反映され、「相手には相手の都合があり、自由に過ごす権利もある」と、他者を少し尊重できるようにもなりました。

愛猫との距離感を振り返ることって、もしかしたら人間関係の育み方を見直すきっかけにもなるのかもしれません。

愛猫に”しないこと”は自分がされたくないことだった

「動物にしていることは自分がされたいこと」は裏を返せば、「自分がされたくないことは動物にしていない」ということ。私はどんなことをされたくなくて、愛猫とどう向き合ってきただろうか。

そう、これまでを振り返った時、真っ先に浮かんだのは亡き愛猫ジジの看取り方でした。

愛猫に”しないこと”は自分がされたくないことだった

ジジは「血管肉腫」という、猫には稀な悪性腫瘍の再発によって亡くなりました。緩和ケアに入る前は闘病の仕方に悩んだ。体に負担がかかるリスクを受け入れ、より詳しい検査を行うか、溜まった胸水を抜くだけの治療を受けて自宅で過ごす時間を優先するかのどちらが正しいのだろうと考えたこともありました。

最終的に、私が後者を選んだのは病院へ行くのを嫌がるようになったジジの姿に、未来の自分を重ねたからです。

最終的に、私が後者を選んだのは病院へ行くのを嫌がるようになったジジの姿に、未来の自分を重ねたからです。

私は生まれつき、現代の医学では完治しない心臓病と生きてきました。幸い状態は安定していますが、正直、体に時限爆弾を抱えているような感覚は、ずっと消えません。

私は最期までやりたいことをして、できる限り病院のベッドで過ごさないように生きて、死にたい。パっと咲いて、潔く消えていく花火みたいな人生を送りたい。

いつもそう思ってきたからこそ、ジジの治療を選ぶ時も悩んだ末、できるかぎりジジが生きたいように生き、少しでも最期まで楽しく過ごせるような選択をしようと決めました。

いつもそう思ってきたからこそ、ジジの治療を選ぶ時も悩んだ末、できるかぎりジジが生きたいように生き、少しでも最期まで楽しく過ごせるような選択をしようと決めました。

正直、ジジがこの選択をどう思っていたかは分かりません。でも、死期が迫る中、そばで喉を鳴らし、なぜか大好きな私の足を抱えながらゴロゴロしていた姿を思い出すと、この選択で納得してくれていたのかも…と思います。

私のように、飼い主が下す愛猫への医療的ケアの決断には、その人の死生観だけでなく、強い信念が反映されていることも多いはず。そうした”想いだらけの選択に、私は深い愛を感じます。

私のように、飼い主が下す愛猫への医療的ケアの決断には、その人の死生観だけでなく、強い信念が反映されていることも多いはず。そうした”想いだらけの選択に、私は深い愛を感じます。

自分がされたくないことは相手にしない――。その考えは人間関係の基本であるものの、SNSでの誹謗中傷が社会問題となっている今、備わっていて当然な能力とは言いがたい。

そんな時代だからこそ、愛猫との交流を通して、自分がされて嫌なことや他者を傷つける言葉遣いをしていないだろうか…と考え、人間相手との向き合い方も良い方向に変えていけたらいいな。

偶然、手に取った本に書かれていた「動物にしていることは自分がされたいこと」という仮説は自分の在り方を考えさせてもくれる、面白いテーマでした。興味がある方は愛猫に対する言動を振り返り、自己分析を楽しんでみてください。

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